次に、平家が陣取った檀ノ浦地区から、対岸の激戦地、牟礼町に向かう。ここでは、菊王丸と共に、義経側では、奥州の武将佐藤継信が、義経の身代わりとなって、平家が誇る強弓の勇将能登殿に射落された。この地を「射落畠」(いおちばた)と呼び、継信の墓は、この地と檀ノ浦地区にもある。
 この近くに、弱冠20歳の弓の名人、那須与一が、平家の船に立てた竿の先の扇の的を射る時に「南無八幡大菩薩、あの扇の真ん中を射させ給え…」と祈った岩「祈り岩」を見聞。続いて、北風に荒れる海の中で扇の的が狙いにくいため、与一が駒を海中の大きな岩まで進めて、そこで足場を固めて射落したという「駒立岩」(こまだていわ)を見物した。
 「駒立岩がすっぽり見られるのは運がいいのです。干満の差が大きい大潮の時の引き潮でないと、見られません。それにしても当時は、人を射ないで、扇の的を射る。敵味方がなんとも優雅な戦闘を繰り広げたものでしょう」と小比賀氏。
 義経が落とした弓を命懸けで拾い揚げる「弓流し跡」がある。義経の弓が、あまりにもお粗末で、敵方に知られるのを防いだわけである。また、平家の武士悪七兵衛影清と源氏の美尾屋十郎とが一騎打ちの勝負をした折、十郎が太刀を折られて逃げ出すのを、影清が熊手を使って十郎の兜の錣(しころ)を引き千切ったという「影清の錣引きの伝説」跡地にも立ち寄る。
 戦跡巡りのフィナーレは、源氏が陣を張った瓜生が丘。写真の右奥の小山の西林寺に、義経が本陣を置いた。合戦前の朝食の準備をする際、弁慶が石地蔵を持ち出してきて、地蔵の背中をまな板代わりに、包丁の代わりに長刀(なぎなた)で菜を切った。この地蔵を「菜切地蔵」と呼んでいる。

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