時代は寿永4年(1185年)2月。これより先の寿永3年(1184年)、一ノ谷(神戸)の合戦で敗れた平宗盛は、安徳天皇を奉じて屋島に移った。それ以前の富士川の合戦(1180年)で「水鳥の羽音に驚いた」平家軍が、一戦もしないで逃げ帰って以来、ほとんど負け戦の連続だった。だが、一ノ谷合戦から屋島合戦までまる1年の間があった。
 その理由は、いろいろある。水軍の弱い源氏側に、新たに軍船を建造したり、熊野水軍などの援軍工作に手間取った。後白河法皇が安徳天皇が抱く三種の神器の無事帰還を願って、屋島の急襲を手控えた。さらに源氏側では、木曾義仲を追放後も、頼朝と義経の仲がこじれた、など要因が挙げられる。
 では、屋島源平合戦の戦況は、どのように推移したのか。その戦跡巡りに、屋島を下って、郷土史家の小比賀行義・屋島文化協会会長(78)と、地元の柏原功・屋島郵便局長(45)のご両人と合流して、古戦場解説をお願いした。
 寿永4年2月17日早朝、悪天候を強行した義経軍は阿波勝浦(小松島市)に漂着上陸した。そこから昼夜兼行で、阿波と讃岐の国境である峻険な大坂峠を乗り越え、本隊を分けて海岸沿いの志度街道と山間の長尾街道とを別々に進み屋島の背後に迫った。
 「ここが鞍掛けの松です。義経が松の枝に鞍を掛け、屋島を仰ぎ見て一息入れた。作戦会場の場でもあったのでしょう」と小比賀氏の解説。JR屋島駅に近いが、住宅街の中に混在していて、案内する人がいないと、容易に発見できそうにない。
 小休止の後、すぐ義経軍が動いた。高松、牟礼の里を次々に放火し、平家側を錯乱状態に陥れた。当時、平家側は、安徳天皇を始め、多くの公家衆、武士団が、屋島の北傾斜地檀ノ浦(注:平家滅亡の長門は壇ノ浦で、檀と壇が違う)に陣を構え、滅ぼしてきたばかりの伊予河野水軍首領の首実検をしている最中だった。猛火と猛煙を見て、腰を抜かさんばかりに慌てふためいた。
 「敵軍は近いぞ。大軍だ。いったん、船に引き揚げろ…」と、僅か3歳の安徳帝を抱いて、我先に入り江に浮かべていた船に逃げ込んだ。当時の屋島は、文字通りの島で、簡単に人馬が渡れなかった。高松よりの地点に赤牛が渡れる浅瀬があると聞き込んで、それを義経軍が利用した。その地に現在は「赤牛橋」(あかばざき)という神社が祀られている。
 この檀ノ浦地区には、戦死した菊王丸の墓と安徳天皇社(檀之浦神社)がある。18歳の若武者、菊王丸の墓には、五輪の墓石が見える。安徳天皇社は、帝が1年余りを過ごした案在所跡地。屋島の峰を背に、檀ノ浦の入り江を眼前にした防御に好都合の地の利を得ていた。しかし、その地の利をまるで生かせなかったのだ。

 

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